
指揮者クルト・マズア氏が逝去されました。
ニュースで知りましたが、
80代後半ともなれば大指揮者の損失であっても
大往生という立派なことかもしれません。
私は三木にマズア氏の話によく聞きましたが、
晩年の読売日本交響楽団での委嘱新作を
マズア氏が降った時に鞄持ちでお供した際に、
挨拶をさせていただいただけです。
しかしながら、三木とマズア氏の関係は
少し書き留めておこうと思います。
日本音楽集団による海外公演の際に、
マズア氏が三木音楽と方楽器に非常興味を抱き、
それから間もなくしてゲバントハウスの
命名200周年記念作品として作品を委嘱されたのです。
私が詳細を書き留めるというより、
三木自身が書いているマズア氏との共演に関して
読んでいただいた方が良いので、
三木稔HPの引用を紹介しておきます。
三木稔のHPから「マズア氏指揮<急の曲>初演の話」
http://www.m-miki.com/jp/discography/04.html#Anchor-18550最初の写真は1981年11月12日,
ゲヴァントハウス(ライプツィッヒ)に於ける<急の曲>初演の時のカーテンコールです。
そしてこの<急の曲>は何度も再演されながら、
下記の写真のように1994年10月に
ニューヨークに於いてアメリカ初演をいたしました。

さらに下の写真にあるように、
マズア氏の家を彼が訪問するような機会もあったほど
音楽的に非常に親交の深かった間でもあります。

そして2000年11月に読売日本交響楽団で初演されたのは、
マズア氏の推薦から委嘱新作になった<大地の記憶>です。
このリハーサルからは私も勉強させていただきました。
マズア氏の奥様が日本人であるということも理由だったかもしれませんが、
三木とマズア氏は長年とても近い関係にありました。
オペラの世界ではマズア氏との接点が少なかったですが、
シンフォニーオケと邦楽による接点・・・というより、
東西の文化を融合する作業という点に於いて、
信頼すべき間柄であったということでしょう。
マズア氏の影響力はドイツ国内でも非常に強く、
私がベルリンに渡独している時にも、
壁崩壊に関しても彼は積極的に政治的な活動もして、
記念的な演奏会もたくさん企画をしていたのをよく覚えています。
多面での活躍も有名だったマズア氏を悼む声が
あちこちから聞こえてきますが、
こうして三木稔と関係深かった音楽関係者が
亡くなることがとても寂しい気がします。
合掌
三木音楽舎代表 榊原 徹